スモールグループの勉強:
ヨハネ3:19-21「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」    

第一ヨハネ1:7-10「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」    

あなたは「恥」をどのように定義しますか?    

私たちは、たびたび自分の罪が神様よりも人に知られることを恥じます。(ヨハネ 12:42-43) 

これはあなたにも起こることがありますか?私たちが、神様の私たちに対するお考えよりも、人々の考えを恐れるのはなぜだと思いますか?    

エレミヤ書16:1 主は言われた。「わたしの目は彼らのすべての行ないを見ているからだ。彼らはわたしの前から隠れることはできない。また、彼らの咎もわたしの目の前から隠されはしない。」  
神様は私たちが今までにしたこと全て、そして私たちが考えた全てのことをご存知です。私たちの本当の姿を知って、イエスは私たちを非難するためにこられたのでしょうか?いいえ!(ヨハネ 3:16-17)そうではなく、イエスは私たちを助けるために、喜んで恥の十字架を受けられました。(ルカ 18:31-33; ヘブル 12:2)このこと、つまり福音を信じることが、光の中を生きる人生への最初の、そして基本的なステップです。    

福音を信じることが、なぜ、私たちに罪を神様に、そして人に告白することを許すと思いますか? 

福音中心の告白は、神様の恵みや、神様が罪よりも満足を生み出す存在であるという希望への信仰を通して、常習的な罪の奴隷からの解放へと導きます。人間中心の告白は、私たちへの人々の意見への恐れから、罪を止めようと私たちを促します。そのような人間中心の告白は無力で痛みを伴うものです。 

なぜ、福音中心の告白が、人間中心の告白よりも常習的な罪から私たちを自由にするのに効果的だと思いますか?    

ヤコブ5:16「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」  

この通りに行っていきましょう。    

あなたは本当の意味で、最近どのように生活していますか?あなたは鬱やストレスと格闘していますか?プライドや自己中心性、不道徳と戦っていますか?何が、あなたのキリストにある喜びにあふれた歩みから遠ざけていますか?    

他の人に罪を告白する習慣を持つことが重要であるだけでなく、私たちはどのように告白を聞き、福音を互いに思い返すかを知る必要もあります。必要であれば、互いに以下の福音の真実をグループ内で共に思い返してみましょう。ローマ5:8; 8:1,8:31-39; 第一ヨハネの手紙1:7-10